シャルル・ド・ゴール:対立の人生

シャルル・ド・ゴールは1890年11月22日、リールでカトリック信者で愛国心の強い家庭に生まれた。父のアンリ・ド・ゴールは文学と歴史の教授だった。若きシャルルはイエズス会で学び、15歳の若さで軍人を志した。国家の偉大さを尊ぶ中で育った彼は、軍人の道を選んだ。

ブルジョワ、カトリック、ナショナリスト——シャルル・ド・ゴールの青春はこのように表現できる。彼はすでに国家的な運命を夢見ていた。1905年に書いたエッセイの中で、少年時代の彼は1930年にフランスが攻撃され、ある…ド・ゴール将軍によって救われると想像していた。若き将校となったシャルル・ド・ゴールは、彼はしばしば理想化する軍隊に加わった。

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1909年にサン・シール軍事学校に入学した際、彼は221人の中で119位だったが、1912年に卒業した際には13位に上昇した。彼はアラスの第33歩兵連隊に少尉として配属され、一時期はペタン大佐(後の彼の師匠)の下で勤務した。1913年10月1日に中尉に昇進した。

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シャルル・ド・ゴールの第一次世界大戦

1914年から1915年にかけて、彼は3度負傷した後、1916年3月2日に捕虜となった。1916年3月1日、ドイツ軍の攻撃で彼の部隊がほぼ全滅した際、大尉に昇進していたド・ゴールは戦死したと見なされた。ヴェルダン要塞を指揮していたペタン将軍は、彼に追悼の表彰状を署名した。しかし実際にはド・ゴールは生きていた。彼は手榴弾の爆風で気絶し、銃剣で負傷していた。彼が見つからなかった理由は、敵軍の手に落ちていたからだった。彼は戦争終結までドイツで捕虜として過ごし、最後の期間は「難治例」の囚人を収容するインゴルシュタット(バイエルン)の要塞で過ごした。彼は5度脱走を試みたが、いずれも失敗に終わった。そのため、彼は1918年11月11日の休戦協定でようやく釈放された。

逸話
そこで彼は、後にソ連の元帥となり1920年のソビエト・ポーランド戦争で西部戦線を指揮するツハチェフスキー大尉と出会った。この役割で、彼らは敵対する立場となった。ド・ゴールはポーランド軍の顧問として活動していたのだ。ツハチェフスキー元帥は、1937年にド・ゴールと再会した数ヶ月後にスターリンの命令で銃殺された。1966年、共和国大統領としてモスクワを訪れた際、彼は生きていた元帥の妹と会おうとしたが、果たせなかった。この訪問中、彼は赤の広場にあるスターリンの墓所(レーニンの墓所ではない)の地下室で20分間一人で過ごした。同行していたソ連の役人たちは大いに驚いた。彼はこの独裁者とどんな思考を共有したのだろうか。

ペタンとの意見の相違へ

1918年11月11日の休戦後、シャルル・ド・ゴールはペタンの庇護の下で軍務を続けた。しかし、この捕虜生活は彼の知的成長にとって重要な期間だった。彼は「総力戦」の実施について、1914年の大攻勢の失敗後に続く長期化する戦争において経済と社会を総動員すること、フランス軍最高司令部の過ち、文民権力と軍隊の関係について深く考える機会を得た。ドイツでの捕虜生活は、戦闘と勝利から遠ざけられた彼にとって深い傷となった。釈放の際、彼は母親にこう書いている:

「あなたと一緒にこれらのイベントで感じる、途方もない喜びは、確かに私にとって、これらにもっと大きな役割を果たせなかったという、かつてないほど苦い、言い表せない後悔と混ざり合っています。[…] 武器を手にこの勝利に参加できなかったことは、私にとって、死ぬまで消えない悲しみです。」

1919年4月初め、彼はポーランド自治軍に転属しました。彼はポーランドで3度の任務に就き、さらにソビエト・ポーランド戦争にも参加しました。ポーランドの勝利後、彼はポーランド軍に関する総括報告書を書きました。FT17戦車連隊の行動を分析する中で、「戦車は集団で展開し、分散させてはならない」と書きましたが、ポーランドでド・ゴールは機動戦を発見しました。彼は大規模な騎兵部隊を衝撃力として活用し、戦略的決定を達成する手段として強調しました。これらの観察が、フランス軍指導部の教義、特に第一次世界大戦の塹壕戦を経験したペタン元帥を含む指導者たちから、次第に彼を遠ざけていきました。

シャルル・ド・ゴールとペタン元帥の危機

1922年、ド・ゴールは高等戦争学校の入学試験に合格し、キャリアを進める上で重要な一歩を踏み出しました。その後、1925年にペタン元帥の個人スタッフに加わりました。元帥はド・ゴールのキャリアを大いに後押しし、高等戦争学校で担当していた授業を彼に代わって教えることを許可しました。「ヴェルダンの勝利者」が栄光の絶頂にあった時、彼はフランス兵士の歴史に関する書籍の執筆を決意し、その執筆を若きプロテジェに託しました。元帥は、1924年に「敵の不和」を出版した際に見出していた彼の文章の才能を認めていたのです。

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また、ド・ゴール中佐は、1925年7月と8月にリャウテイ元帥が解任されたことで、ペタン元帥への尊敬を失った。ペタンはモロッコでフランスに多大な貢献をしたリャウテイからスタッフを引き上げ、「あなたの時代は終わった。まもなく文民の居住者に交代する」と告げた。

しかし、1928年には、二人の間でより深刻な危機が勃発した。ド・ゴールは、ペタンが自分の著書の進展を早めるために、オーデット大佐という別の著者を呼んだことに強い不快感を覚えた。彼は元帥との間に築いていた準親子のような関係が断絶したのだ。

そして、1932年にレバノンから帰国したド・ゴールは、『指揮官の役割』についての講義をまとめた『剣の糸』を出版した。彼は指導者の養成の重要性と状況の重みを強調した。ド・ゴールは、フランスにとって「領土の要塞化は常に必要なことだ」とまで書いたが、一方でジャン=バティスト・ユジェーヌ・エティエンヌ将軍の装甲部隊の必要性に関する考えにも敏感だった。火力と機動力を兼ね備え、大胆な行動と攻撃を可能にする部隊である。この点で、彼は公式の教義、特にペタンのそれにますます反発するようになった。

10年後、ド・ゴールはペタンのために書いた原稿を自分の名前で『フランスとその軍隊』というタイトルで出版した。ペタンはこれを出版を阻止しようとしたが、最終的に「この本を書くのを助けてくれた元帥へ」という献辞で出版を許可した。しかし、ド・ゴールは直前にこれを「この本を書くことを望んだ元帥へ」と修正した。この言葉は、ある意味で最後の一撃だった。ペタンは確かにこの本を書くことを望んだが、それは自分の栄誉のため、自分の名前で書かれるべきだったからだ。

ペタンは、このころ大佐を単なる野心家で教養のない男と見なすようになった。これが二人の間の決定的な決裂を意味し、彼らは1940年6月にわずかに再会するまで会うことはなかった。

シャルル・ド・ゴール、レバノンへ – 1929-1932

ペタンの下で働いていたド・ゴールは、1929年にレバノンへ転属しました。レバノンは1919年からフランス委任統治領となっていました。これは彼にとって唯一の植民地経験で、3年間続きました。
このキャリア選択は、ペタンやフランスから距離を置きたいという彼の願望に加え、1年前に生まれた娘アンヌの病気が影響した可能性があります。アンヌはダウン症候群を患っていましたが、当時の社会では遺伝的欠陥による恥ずべき病気と考えられていました。「かわいそうな小さなアンヌ」の障害が発覚したことは、ド・ゴール夫妻にとって大きな試練となりました。しかし彼らは娘を専門機関に預けるのではなく、自宅で育てることを選びました。1940年、ド・ゴールは珍しく娘について語り、連隊の司祭ブールジョン神父に次のように告白しました:

「父親として、信じてください、これは非常に大きな試練です。しかし私にとって、この子は祝福でもあります。彼女は私の喜びです。彼女は私に、すべての失敗や栄誉を超え、常に高みを見つめる力を与えてくれます。」シャルル・ド・ゴール。

戦前期とシャルル・ド・ゴール – 1932-1940 – 近代軍隊のための新しいアイデア

軍人としてのキャリアを追求しながら、シャルル・ド・ゴールは自らの思想を広めようとしました。1924年に出版した最初の著書『敵の不和』は、あまり知られていませんでした。この本では、ドイツの敗北の理由を分析し、文民権力の放棄が軍事権力に有利に働くという致命的な結果を強調しています。これは1939年のフランスで起こることの予兆だったのでしょうか、それとも分析だったのでしょうか?

シャルル・ド・ゴールは、1932年に国防最高評議会に任命され、本土フランスに帰還しました。ヨーロッパ大陸で新たな緊張が高まり、新たな紛争の可能性が浮上すると、彼は議論を観察する最適な立場にありました。

1932年に『剣の糸』(Le Fil de l'épée)という題で、リーダーシップの役割についての講演をまとめた著書を出版し、その中でリーダーの養成の重要性と状況の重みを回想しました。『剣の糸』は、リーダーの役割の重要性を強調し、ドグマに縛られず、常に主体性と批判的思考を発揮できることが必要であると説いています。これは当時のフランス軍元帥たちとは対照的でした。

しかし、彼の3作目の著書『職業軍への道』(Vers l’armée de métier)が最も成功を収め、1934年に出版されるとすぐにロシア語とドイツ語に翻訳されました。この本では、ド・ゴールは戦車の登場が戦争を革命的に変えたと主張し、前回の紛争で特徴づけられた膠着状態から脱却する方法を提供したと指摘しました。しかし、彼は徴兵兵士が装甲部隊に適していないと考え、専門的な訓練を受けた人員が必要だと主張しました。ド・ゴールは徴兵軍の隣に職業軍を設立することを提唱しました。

1939年の奇妙な戦争

第二次世界大戦が1939年9月1日に勃発すると、ド・ゴールはアルザスに駐屯する第5軍の戦車部隊を指揮する大佐でした。

彼は「奇妙な戦争」(1940年5月10日まで続いた)の間、連合軍の戦略が攻勢よりも待機的な姿勢を優先したことに苛立ちを感じていた。しかし、ドイツ軍(ヴェルマハト)がブリッツクリグ(「電撃戦」)戦略を採用し、航空機と戦車を主力として前線を突破し敵の防衛線を破壊したことで、たった数週間でポーランドが崩壊したことは、ド・ゴールの理論を裏付けるものであった。彼は、現代戦における装甲車両の新たな役割についての理論を確信していたのである。

1940年5月10日、ドイツ軍が西方への攻撃を開始したとき、ド・ゴールはちょうど第4予備装甲師団(DCR)の指揮を任されていた。彼は5月17日にモンコルネ、5月19日にクレシー=シュル=セルで反撃を試みた。彼の戦車は一時的に敵を押し戻すことに成功したが、最終的に失敗に終わった。ド・ゴールが指揮する師団には、占領した地点を維持するための十分な歩兵も、ドイツ軍のシュトゥーカ急降下爆撃機の空襲に対処するための十分な資源もなかった。勝利を収めることはできなかったが、ド・ゴールは高級指揮官から祝辞を受け、准将に昇進した。彼はフランス軍史上最年少の将軍となった。

第二次世界大戦が勃発するまで、49歳になるまで、シャルル・ド・ゴールは輝かしい軍歴を築いていた。その経歴は、第一次世界大戦や海外での戦闘経験によって深く刻まれていた。戦間期には、彼は現代戦に適した新しい軍隊の構想を発展させ、愛国心と先見性に富む軍人の理想を追求した。

1940年5月~6月のド・ゴール

軍事状況がさらに悪化する中、彼の師であるポール・レイノーが1940年3月にダラディエに代わって首相に就任すると、6月5日に国防次官に任命した。この日、50歳の誕生日を迎えたド・ゴールは、政治的なキャリアをスタートさせた。
総司令官のウェイガンドは、ペタン元帥の支持を得てドイツとの休戦を主張していたが、ド・ゴールは戦闘の継続を訴えた。彼はブルトン赤壁の構想を支持していた。これは、フランス軍と政府をブルターニュに集結させ、一時的にドイツ軍の進撃を食い止め、行政機関を帝国に移転させることで戦闘を継続するというものであった。

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6月9日、彼はイギリスの首相ウィンストン・チャーチルとイギリスで会談しました。1940年6月11日、最高連合会議の最後から2番目の会議が、ブリアール近郊のブレトーのシャトー・デュ・ミュゲで開催され、イギリス首相ウィンストン・チャーチルと戦争大臣アンソニー・イーデンが出席しました。彼らはその日、ブリアール近くに3人の将軍とともに着陸し、フランス側には首相ポール・レイノー、副首相フィリップ・ペタン、新任の戦争大臣シャルル・ド・ゴール、マクシム・ウェイガン、その他の将校たちが参加しました。この「ブリアール会議」は、連合国間だけでなく、戦争を続けることを望むド・ゴールと休戦を望むペタン、ウェイガンらフランス指導者間の分裂を象徴するものでした。

ペタン vs. ド・ゴール:ドイツに対するフランスの未来をめぐる根本的で決定的な対立

1940年6月11日のブリアール会議で、ペタンの「協力によってフランスの残存部分を守る」という立場は、ド・ゴールの考えと完全に対立していました。1940年春のドイツの電撃戦は、フランスの防衛を数週間で崩壊させました。6月14日、ナチスはパリを占領しました。第一次世界大戦の英雄であるフィリップ・ペタン元帥を首班とするフランス政府は、6月22日に休戦条約に調印し、事実上降伏しました。ペタンは占領されていない南部にヴィシー政権を樹立し、ナチスと協力し、「フランスは敗北した」と宣言しました。多くの人々にとって、この降伏は耐えがたいものであり、全員が諦めるわけではありませんでした。

ヴィシー政権は反対派を弾圧し、ナチスの政策を実施しましたが、ド・ゴールは亡命先から放送を続け、フランスの植民地を組織し、連合国の支援を求めました。彼は自由フランスの象徴となり、戦いはまだ終わっていないことを示しました。

その結果、ウィンストン・チャーチルがアルジェリアのメルス・エル・ケビールでフランス艦隊を攻撃したカタプルト作戦(1940年7月3日~6日)から1ヶ月後、ド・ゴールは不在裁判で2度起訴され、「国家の外部安全保障を損なう行為、戦時中の国外逃亡、戦時下の領土における反逆罪」で有罪判決を受け、1940年8月2日にクレルモン・フェランで「死刑、軍事的名誉剥奪、動産・不動産の没収」の判決を言い渡された。フランス国籍剥奪は、1940年12月8日付の勅令で確認された。

シャルル・ド・ゴールとイギリス

1940年6月17日、ド・ゴールはロンドンに亡命した。イギリスでは、ウィンストン・チャーチルの支援だけでなく、議会、メディア、世論の支持も得た。ドイツの脅威が最も深刻な時期にフランスに立ち向かった勇敢なフランス人への感謝の気持ちからだった。この支援は、アメリカ世論の支持とともに、ロンドンやワシントンとの緊張関係において貴重な資産となった。しかし、1945年までチャーチルとド・ゴールの間には数々の対立が起こった。

イギリス軍のデュンケルク撤退

まず、1940年5月26日から6月2日にかけて、イギリスはフランス軍司令部と相談せずに、20万人の遠征軍(および139,229人のフランス兵)をデュンケルクから撤退させることを決定した。約束に反して、チャーチルはイギリス空軍の25個戦闘機部隊の介入を拒否した。残ったフランス軍はドイツ軍に単独で立ち向かい、装備(2,472門の大砲、約85,000台の車両、68,000トンの弾薬、147,000トンの燃料、377,000トンの物資)をすべて奪われ、さらに35,000人のフランス兵が捕虜となった。

ド・ゴールの闘争の意味についての意見の相違

チャーチルとド・ゴールの間には条約によって結ばれた信頼関係があったが、二人の関係は時には緊張(嵐のような)状態に陥った。1942年9月、チャーチルはド・ゴールに言った。「しかし、あなたはフランスではない! あなたは自由フランスだ。私たちはそれをすべて書面にした。」ド・ゴールはすぐに返答した。「私はフランスの代理として行動している。私はイギリスと共に戦っているが、イギリスの代理としてではない。私はフランスの代理として話し、フランスに責任を負っている。」

シリアにおける作戦

彼らは1941年にシリア問題で決裂しそうになった。この作戦は1941年6月から7月にかけて行われた。これは、1941年4月1日のイラクの親ドイツ首相ラシード・アリー・アル=ガイラーニによるクーデター未遂事件の後、ドイツがスエズ運河を脅かすのを防ぐためのものだった。

ド・ゴールが招待されなかったトルシュ作戦

「トーチ作戦」は、1942年11月8日、主にモロッコとアルジェリアで行われた連合軍の上陸作戦のコードネームです。これは、1942年10月23日から11月3日までエジプトのエル・アラメイン近くで行われた作戦に続き、バーナード・モントゴメリー率いるイギリス第8軍とエルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団が激突したもので、連合軍の決定的な勝利に終わったものです。

トーチ作戦の目的は、ドイツに対する北アフリカ戦線を開くことと、地元レジスタンスの協力を得て「スムーズな」上陸を実行し、現地のヴィシー政権軍が連合軍に合流することを期待することでした。

地元レジスタンス指導者とイギリス、そして主にアメリカの代表との間で数ヶ月にわたる交渉の末、以下のような決定が下されました。

エリック・ブランカによると、ド・ゴールは「フランスの主権領土」へのこの上陸について通知されなかったといい、これは自分の組織を排除しようとする試みと解釈したとされます。特に、上陸後、アメリカはダルラン提督を「ペタン元帥の後継者を自称し、その名で統治すると主張した」北アフリカフランス(AFN)の長に任命しました。彼は1942年12月24日、地元レジスタンスによって暗殺されました。

ド・ゴールに通告せず行われたマダガスカルへの上陸

イギリスはガウリストに事前通告せずにマダガスカルに上陸した。これは特殊なケースであった。1942年11月にヴィシー政権が降伏した後、イギリスは数ヶ月間島を管理し、1943年1月まで自由フランスに権限を移譲しなかった。

フランスのアフリカ領土の状況は、フランス北アフリカ(AFN)で政治的に展開されていたが、1943年6月にブラザヴィル(自由フランス)とアルジェ(フランス国民解放委員会)の当局が合併し、フランス国民解放委員会が設立されたことで、次第に安定化した。

シャルル・ド・ゴールとルーズベルト

フランクリン・ルーズベルトとの関係はさらに問題だった。フランスを個人的に愛していたアメリカ大統領は、1940年のフランスの崩壊に失望し、1940年9月末のダカールでのド・ゴールのキャンペーン失敗後、彼に幻滅した。

デュロセルによれば、ルーズベルトのド・ゴールに対する体系的な反対政策、いわゆる「第三者」戦術は、自由フランスの指導者をヴィシー政権に取って代わらせようとするもので、6月18日の男(ド・ゴール)に深い印象を与えた。彼はこれをアメリカ帝国主義の卑劣な策略と見なした。

ワシントンのフランスのロビー活動家とルーズベルト顧問からの信頼できない情報

ワシントンには多くの反ドゴール派のフランス人がいた。ほとんどがヴィシー政権から来ていたからである。例えば、クエ・ドールセイの元事務総長アレクシス・レジェ(サン=ジョン・ペルス)は、将軍を「独裁者の見習い」と描写した。大統領はまた、アメリカ大使のリーハイ提督からフランスの状況について極めて不十分な情報を得ていた。彼は1942年5月までヴィシーに留まっていたため、ドゴールに対して信頼を持てなかった。ドゴールからチャーチルへの手紙の一部が、フランスのアメリカに対する態度を説明している:「私は屈するには貧しすぎる。」

ルーズベルトのドゴールに対する憎悪

ルーズベルトの憎悪は非常に強烈で(彼はドゴールを最悪の場合は未来の暴君、最善の場合は機会主義者と見なしていた)、最終的に副官たちも不快に感じた。国務長官コーデル・ハルもそのうちの一人で、最終的に自由フランスとその指導者に味方した。

アメリカ政府の不満をよそに、ドゴール指導者としての地位が徐々に認められる

イギリスに亡命政府があったが、これは「合法」とみなされていた。彼らは、ロンドンに拠点を置く「正統」政府であるペタン政権からの「反逆者」と見なされていたド・ゴール派と良好な隣国関係を保っていた。しかし、1943年、ベルギー亡命政府の首相ヒューバート・ピエルロとポール=アンリ・スパークがこの動きを加速させた。ベルギーは最初に「自由フランス」とド・ゴールをフランスの唯一の正統な代表者として公式に承認した。イギリス政府(チャーチルの親しい協力者アンソニー・イーデン)はベルギーを説得しようとしたが、ベルギーの行動が他の亡命政府に模範となることを恐れた。アメリカも介入し、ベルギー=アメリカ間の貿易関係を利用して圧力をかけようとした(特にベルギー領コンゴからのウランの注文に関して)。しかし、何の効果もなかった。イギリスとアメリカの圧力にもかかわらず、スパークはベルギーがペタン政権を非合法とみなし、自由フランス委員会(後にフランス臨時政府)がフランスを代表する唯一の合法的な機関であると公式に発表した。

サンピエール・ミクロン危機(1941年12月24日)

これは自由フランスとアメリカ政府の間で緊張が高まったもう一つの瞬間だった。歴史家ジャン=バティスト・デュロセルによると、連合国はヴィシー政権下のフランス領サンピエール・ミクロン諸島がドイツ潜水艦に有利な無線基地になることを恐れた。ド・ゴール将軍は連合国に、自由フランス海軍が島を占領するよう提案した。アメリカは拒否したため、ド・ゴールは連合国の支持があろうとなかろうと、ミュジエールに島を奪取するよう命じた。このニュースに激怒したド・ゴールは、連合国の同意があろうとなかろうと、ミュジエールに島をできるだけ早く奪取するよう強く命じた。

ド・ゴールのアメリカの命令への不服従は、国務長官コーデル・ハルにとって深刻な侮辱であり、アメリカの権威への挑戦と見なされた。ハルはこの行動を実行したフランスの義勇兵を「いわゆる自由フランス」と公に呼んだ。この表現は、フランス抵抗運動に共感的だったアメリカ国民から強く批判された。ハルはこの事件から「ド・ゴールは危険な冒険家、独裁者の見習いだ」と結論づけた。

ジラール将軍がド・ゴールを連合国にフランスを代表させることを好む

フランス側に受け入れ可能な将軍が現れるまで、連合国側と共に戦争への復帰を主導する者は現れなかった。ダーランド提督の暗殺後、ジャック・ルメイグル=デュブリュイユは、ドイツから脱出したジラード将軍の名を挙げた。彼は1940年にジラードの副官を務めていた。しかし、ジラードがペタンと国家革命政権の熱烈な支持者であることは、他のレジスタンスのメンバーには伝えなかった。そのため、彼らの同意を得るのは容易だった。

ジラードはアメリカ側からも支持されていた。ルーズベルトは、ドゴールの判断力と方法を信頼できず、操作しにくいと考えていたため、ジラードを好んだ。アメリカの使節とルメイグル=デュブリュイユからの接触を受けたジラードは、作戦に参加することに同意したが、当初はフランス国内で同時に作戦を実施し、自らが最高司令官となることを要求した。その間、彼はアルジェリア軍団の参謀総長であるシャルル・マスト将軍を指名し、陰謀者たちの代表として活動させた。また、北アフリカ軍をアメリカ側に引き込むことができると主張したが、フランスの抵抗組織はこれを疑っていた。

ドゴールは1943年5月にアルジェに足場を築いた。フランス国家委員会は、ジラード率いるフランス軍事・民政最高司令部と合併し、ジラードとドゴールを共同議長とするフランス国家解放委員会(CFLN)を形成した。しかし数ヶ月後、ドゴールはCFLN内でジラードを追いやり、11月に新政府を樹立してフランス連合軍の唯一の政治指導者としての地位を確立した。ドゴール率いる自由フランス軍は、ジラードの指揮下にあったアフリカ軍と合流した。フランス解放軍は130万人の兵士から成り、連合国軍と共に戦闘に参加した。1944年6月3日、アルジェでCFLNはフランス臨時政府(GPRF)となった。

占領地域の連合軍軍政府(AMGOT)計画

ルーズベルトとドゴールの対立は、ノルマンディー上陸の前夜に頂点に達した。この緊張の原因は、連合国がフランスに占領地域の連合軍軍政府(AMGOT)を設立する計画を立てていたことにあった。歴史家のレジーヌ・トルランによると、この論争的な機関は「イギリスやアメリカの将軍によるフランスの軍事占領」であり、ヴィシー政権を維持しつつ「国家行政のトップポストをイギリスまたはアメリカの最高司令官に」割り当てるものだった。1944年のGPRF議長だったドゴール将軍は、AMGOTをフランスの主権に対する極めて深刻な侵害とみなした。これは「第二の占領」であり、「軍事行政を通じてフランスを支配しようとする試み」だった。アメリカで印刷されたフランという通貨が、解放されたフランスで法定通貨として流通することになった。これは「フランスの主権への攻撃の象徴」とされた「偽造通貨」だった。

ルーズベルトはフランスを敗戦国の陣営に置いた

ルーズベルトはフランスを弱体化させる計画を立て、占領地域連合軍政府(AMGOT)プロジェクトはその方向で大幅に進められた。アメリカはフランスを敗戦国として扱い、勝利国の一つとしては扱わなかった。これは、フランスの崩壊に乗じてフランスの植民地帝国を自国の利益のために奪おうとするアメリカの試みだった。「アメリカ政府はまず、フランスの植民地を国際信託統治制度の下に置くことを提案した」という状態は、アメリカに市場や資源、戦略的拠点への自由なアクセスを与えるものだった。もちろん、自由な考えを持つ、フランス人としての誇り高い人物であるド・ゴールにとって、これは受け入れがたいことだった。

ド・ゴールとアメリカの対立

シャルル・ド・ゴールにとって、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦は「英米の事業」であり、フランスは意図的に排除されたものだった。彼は1964年にピエールフィット大臣に、フランス共和国大統領としてノルマンディー上陸作戦20周年の記念式典に参加しなかった理由をこのように説明した。

最終的に、ド・ゴールはおそらく「英米を屈服させるため」に、ソ連とできるだけ密接な関係を保つよう努めた。特に、フランス軍団を東部戦線で戦わせたいと望んだが、チャーチルとルーズベルトは全力でこれを阻止した。ジャン=リュック・バレによると、ド・ゴールはボゴモロフに、英米との決裂の場合、自由フランス本部をモスクワに移すことが可能かどうか尋ねたという。

歴史家のブルノ・ブルリアゲによれば、「1945年以降のシャルル・ド・ゴールのアメリカ合衆国に対する態度は、第二次世界大戦中にフランクリン・D・ルーズベルト大統領との間にあった対立的な関係を考慮しなければ理解できない」とのことです。

1958年までのド・ゴールの政治活動

フランスにおける民主主義の復活とド・ゴールと制憲議会との意見の相違

この戦後直後の期間中、彼は事実上国家元首に相当する役割を果たしました。

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1945年7月12日、ド・ゴールはフランス国民に対し、二段階の国民投票を実施すると発表しました。第一段階は国民議会の選挙であり、第二段階は議会が憲法制定国民議会となるかどうかを決定するものでした。これは第三共和政の放棄を意味するものでした。彼の計画は受け入れられ、96%のフランス国民が憲法制定国民議会に賛成票を投じました。

しかし、暫定政府大統領のド・ゴールは、国家の構想や政党の役割について憲法制定国民議会と意見が対立しました。1946年1月20日、彼は国民議会議長のフェリックス・グアンに対し、軍事予算の問題で辞任しました。彼は1940年6月18日に自らに課した使命を果たしていました。すなわち、領土の解放、共和国の復活、自由で民主的な選挙の実施、そして経済・社会の近代化を推進することでした。

1946年6月16日のバヨー演説

1946年4月8日、エドモン・ミシェレからの手紙を受け取りました。その手紙には「軍隊における彼の地位を正規化する」ことと、国民議会議長のフェリックス・グアンが彼をフランス元帥に昇進させたいと考えていることが書かれていました。シャルル・ド・ゴールはこれを拒否し、「前例のない状況を正規化することは不可能だ」と返答しました。

1946年6月16日、ド・ゴールはノルマンディーのバヨーで、強力な民主国家の政治組織に関するビジョンを示す演説を行いました。この演説は今でも有名ですが、彼の提案は受け入れられませんでした。その後、彼は1958年に権力を取り戻すまで「砂漠横断」と呼ばれる長い期間を過ごしました。

ド・ゴール将軍の「砂漠横断」

1947年、彼はフランス人民連合(RPF)という政治運動を結成し、レジスタンス闘士、著名人、さらには元ペタン派までをも結集させた。この政党は成功を収めた一方で、第四共和制下の与党連合「第三勢力」からの反対に直面した。この連合は、フランス労働者国際(SFIO)、レジスタンス民主社会連合(UDSR)、急進派、人民共和運動(MRP)、そして中道右派(共和派・自由派)から成り、フランス共産党やゴール派の反対を抑え込むために政権を支えた。要するに、当時のベーオー演説でド・ゴールが懸念したのは、政権与党が政府を交代させ、閣僚ポストを回し合うような政党政治だった。1947年から1958年の間に24の政府が成立し、最長で18ヶ月、最短で3週間しか続かなかった。ちなみに、ド・ゴールの宿敵ミッテラン氏は、第四共和制下で11回も閣僚を務めた!そのため、彼はド・ゴールの第五共和制に反対したが、結局自分が大統領に選ばれると、ためらうことなくこれを採用し、自由に利用したのである。

この期間を通じて、ド・ゴールは政治の第一線からは身を引いていたが、自らが目にしたことや予測したことに対して完全に反対の立場をとっていた。

1958年、第四共和制の与党に対する帰還

閣僚の不安定さと、1954年11月1日の蜂起をきっかけとしたアルジェリア問題への無力さが、第四共和制を深刻な危機に陥れた。政界のあらゆる陣営から、将軍の帰還を望む声が上がった。

第二次世界大戦の事件と同様に、かつてのレジスタンスの仲間たちが彼を権力の座に就けた。彼らは解放の建築家を引き続き尊敬していた。ガウリスト運動は、特にフランス人民連合(RPF)の支援によって整然と構成され、そのメンバーの何人かは戦略的なポジションに配置された。1957年の国防相だったジャック・シャバン=デルマス(レジスタンス戦士)は、レオン・デルベック(レジスタンス戦士)をアルジェに派遣し、公共救済委員会(CSP)の副委員長としてサラン将軍に助言させた。サラン将軍は公にド・ゴールに権力を取り戻すよう呼びかけた。退役将軍のド・ゴールは彼らに何も頼んでいなかった。

ド・ゴールは、1946年にベーウーで概説した改革を実施する意図をもって正式に舞台に立った。緊張を和らげるため、1958年5月19日に記者会見を開き、秩序を回復するために要求した特別期間について国民を安心させることができた。独裁への恐れに対する彼の回答は長く記憶に残った:「私はかつて基本的な市民の自由を侵害したことがあるか? 私はそれを回復した。そして、私は再びそれを侵害したことがあるか? なぜ私は67歳で独裁者としてのキャリアを始めたいだろうか?」

ルネ・コティ大統領の呼びかけ

5月29日、当時の共和国大統領ルネ・コティは「最も偉大なフランス人」に呼びかけた。シャルル・ド・ゴールは政府を組織することに同意した。圧力を受けた国民議会は、6月1日、553人の投票者のうち329票で彼を任命した。ド・ゴール将軍はこうして第四共和政の最後の議会議長となった。議員たちは、6ヶ月間の緊急権限を行使する権限と、憲法改正を実施する権限を彼に与えた。

1958年夏に起草された新しい憲法は、ベーウーでの第二回演説で概説した強力な行政権を持つものであった。しかし、ド・ゴール将軍は自分の望むよりも議会に多くの権力を与えることに同意した。特に、ド・ゴールは大統領を普遍的選挙で選出するという、憲法改正案の核心的な要素を断念せざるを得なかった。これは1962年に最終的に実現した。憲法は1958年9月28日の国民投票で79.2%の賛成票を得て採択された。シャルル・ド・ゴールは12月21日に大統領に選出され、1月8日に就任した。

シャルル・ド・ゴール フランス共和国大統領 – 1958-1969

シャルル・ド・ゴールの誠実さ
大統領在任中、エリゼ宮殿で家族を招いた「非公式」の昼食の費用は、彼の大統領手当から差し引かれました。彼は公的生活を通じて、この厳格さと誠実さの原則を貫きました。そのため、彼の公的・私的生活を汚すような「スキャンダル」は一切起こらず、むしろ彼について「スキャンダル」を暴こうと望む者は多くいました。彼はきっと、この不正不倫のない人物たちの中でも唯一の存在でしょう。

ド・ゴールの国際舞台での活躍

国際舞台では、アメリカとソ連の両方の支配を拒否し、核攻撃能力を持つ独立したフランスを守りました(最初の核実験は1960年)。また、1961年12月19日に国家宇宙研究センターを創設し、フランスの宇宙開発プログラムの基礎を築きました。欧州経済共同体(EEC)の創設メンバーとして、イギリスの加盟を拒否しました。

アルジェリア戦争の終結とOAS、武装反対派

アルジェリア戦争に関して、ド・ゴールは当初、アルジェリアのフランス人たちの間に高い期待を抱かせた。1958年6月4日、アルジェで彼は「あなたたちを理解している」と宣言したが、その日、具体的な約束は何一つしなかった。

1959年の夏、ジュメル作戦(シャル計画)は、FLNに対して全国的に最も重大な打撃を与えた。ド・ゴールはすぐに、軍事的勝利だけではこの紛争を解決できないと気づき、1959年の秋には、アルジェリアの独立につながる解決策へと動き始めた。彼は1959年早々にアラン・ペレフィットに対し、「フランス領アルジェリア」支持者が主張するアルジェリアの「統合」はユートピア的な夢に過ぎないと説明した。文化的に遠く離れ、生活水準に大きな格差がある2つの国は、一つの国家を形成する運命にはなかったのだ。

アルジェでの抵抗とOASとの戦い

徴兵制の軍隊を使い、彼は1961年4月のアルジェの将軍たちのクーデターを鎮圧した。有名な演説の一つで「退役将軍の四人組」と非難された反乱軍を、たった4日で撃退した。この態度は、ある民族主義グループから強い抵抗を招き、ド・ゴールはアルジェリアのピエ・ノワールによる蜂起を鎮圧せざるを得なかった。

彼は秘密武装組織(OAS)のようなテロ組織の標的となり、「ラ・グラン・ゾーラ」というあだ名で呼ばれた。その後、首都はOASによる一連の攻撃の標的となった。

数ヶ月後、1962年2月8日の禁止されたデモ中、シャローヌ駅で8人のデモ参加者が警察によって殺害され、さらに1人が病院で死亡した。

OASテロ組織に関しては、処刑、拷問、並行する警察組織など、非情な手段で鎮圧された。彼らは、ジョルジュ・ブシェシッシュやジャン・オージェのようなギャングをためらわずに雇用した。1963年1月、国家治安裁判所が設立され、指導者たちは数年後に恩赦を受けた。

アルジェリアFLNとのエヴィアン協定

1962年、エヴィアン協定の後、アルジェリアで休戦が宣言された。ド・ゴール将軍はアルジェリア独立の是非を問う国民投票を行い、1962年7月に独立が実施された。

エヴィアン協定調印の翌日には、フランス軍の補助部隊であるアルジェリア人部隊(ハルキ)がフランスによって武装解除され、現地に見捨てられ—and FLNによって虐殺された。

1962年4月、ミシェル・デブレ首相はジョルジュ・ポンピドゥーに交代し、同年9月にはド・ゴールが憲法改正を提案し、大統領を直接普遍選挙で選出することを可能にする。これにより、直接統治するための大統領の正統性を強化することを目的とした。

ペティ・クラマル暗殺未遂事件

ポリテクニーク校出身の35歳の武器技術者ジャン・バスティアン=ティリーは、ド・ゴール将軍のアルジェリア政策を放棄と裏切りだと考えていた。同志の秘密武装組織(OAS)のメンバーと共に、ド・ゴールを誘拐するか、それが不可能な場合は暗殺する計画を立てた。1962年8月22日、パリ郊外のペティ・クラマル交差点で襲撃が行われたが失敗に終わった。ただし、大統領車には約150発の銃弾が撃ち込まれ、その内の1発が大統領夫妻の顔の数センチ先をかすめた痕跡が残った。

1963年1月に開廷した裁判で、バスティアン=ティリーは陰謀の動機を説明し、主にド・ゴール将軍のアルジェリア政策に基づいていた。彼は1963年3月4日に死刑判決を受けた。女性が乗っていた車に発砲したこと、そして他のコマンド隊員とは異なり直接的なリスクを冒さなかったため、バスティアン=ティリーはド・ゴール将軍によって赦免されなかった。これは他のコマンド隊員(そして捕まったOASの他のメンバー)とは異なる扱いであった。裁判終了から1週間後、バスティアン=ティリーはパリ近郊のイヴリー要塞で銃殺された。

1968年、初の恩赦により、OASの最後の指導者、フランス領アルジェリア支持者数百人、そして亡命中の人物(ジョルジュ・ビドーやジャック・スステルなど)がフランスに帰国することができた。フランス領アルジェリアの元活動家はその後、ガウリズムに参加し、SACまたは共和国防衛委員会(CDR)に加わった。ド・ゴールは1968年6月17日にジャック・フォカールに「ある程度の和解に向かう必要がある」と話した。その他の刑事判決は、1974年と1987年の恩赦法によって抹消された。

1965年の大統領選挙とフランソワ・ミッテラン

第1回投票では、ド・ゴールが44.65%の得票で首位となり、統一左派候補のフランソワ・ミッテラン(31.72%)とジャン・ルカヌエ(15.57%)を上回った。内務大臣のロジェ・フレが、ド・ゴールに占領期中のミッテランとフィリップ・ペタンの写真を公開するよう提案したが、現職大統領はそのような手法を使うことを拒否した。バレリー・ジスカール・デスタンは1981年の大統領選挙でド・ゴールと同様の行動を取ったが、敗北した。シャルル・ド・ゴールは1965年12月19日、投票者の55.20%の支持を得て再選された。その後、ド・ゴールは数人の親しい協力者に、任期(1972年終了予定)を全うせず、80歳で引退するつもりだと明かした。

シャルル・ド・ゴール、国際政治、そしてヨーロッパ

「アルジェリアの負担」はフランスの外交的な余地を大きく縮小し、外交政策を影で支配していた。アルジェリア戦争の終結とともに、「国家独立」政策が完全に実施された。

国際舞台では、ド・ゴールはフランスの独立を推進し続けた。彼は1963年と1967年に、イギリスがEEC(欧州経済共同体)に加盟することを2度拒否した。しかし1962年、キューバ危機の際には、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディを支持した。

しかし、1964年には、ド・ゴールはアメリカ合衆国がベトナム共和国(南ベトナム)に対してベトコン(北ベトナム支援のゲリラ組織)による共産主義反乱に対抗するために提供した軍事援助を非難した。また、エジプトがティラン海峡を封鎖したことに対するイスラエルの反応を批判し、さらに1967年の6日間戦争中にイスラエルに対する軍事封鎖を実施した。彼は1966年に、フランスをNATOの統合軍事指揮から撤退させ、アメリカの基地を領土から追放するという最も劇的な決定の一つを下した。

ヨーロッパとド・ゴール

ヨーロッパに関して、ド・ゴールは「国家のヨーロッパ」を支持していた。国家がヨーロッパにおいて自らの責任を負い、歴史的・文化的なアイデンティティを保持することができるようにするためである。「国家を統合させたいのなら、栗を栗のペーストに混ぜるようにして統合しようとするな。正当な指導者を集めて相談させ、ある日、連合を形成し、つまりある権力を共有しつつ、その他の面では独立を保つようにしなければならない」と彼は述べた。ド・ゴールは、ジャン・モネが提唱した超国家的ヨーロッパのアイデアに対して公然と反対した。

ド・ゴールにとって、チャーチルと同様、イギリスは1940年に自らの義務を果たしただけであり、フランスは第二次世界大戦に関してロンドンに「借り」はないと考えた。彼は戦後、イギリスとアメリカ合衆国の間の特権的な関係、および後者と英連邦諸国との間の帝国的経済的優遇措置を非難した。これはイギリスがヨーロッパに加わることを困難にした。そのため、彼は「アメリカのトロイの木馬」のようなものがヨーロッパに加わることを望ましくないと考えた。イギリスは1973年までヨーロッパ経済共同体(EEC)への加盟を待たねばならなかった。

ド・ゴールと共産主義

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ド・ゴールの共産主義世界に対する立場は明確で、彼は完全な反共産主義者でした。彼はこれらの政権との関係を正常化し、歴史の目から見れば「過渡的」であると考え、両陣営の間で重要な役割を果たすことを目指しました。1964年1月27日の中華人民共和国の承認は、その方向性の一歩でした。同様に、1967年9月6日から11日にかけてのポーランド人民共和国への公式訪問は、フランス大統領がポーランド人民を歴史的に根付いたものとみなしていたことを示すものでした。ドイツ問題、つまりポーランドの西部国境の画定は、公式の議論で重要な役割を果たしました。ソ連の支配にもかかわらず、ド・ゴールは熱狂的な群衆に歓迎されました。彼はポーランド議会(国民議会)に対し、将来ポーランドが独立国家としての地位を取り戻すことを期待していると話しました。再び、これは彼の拡大欧州の構想の一部でした。

逸話:
20年以上にわたり、ロンドンからド・ゴール将軍はモーリス・ド・ジャンというフランスの外交官と協力し、彼はロシアとの友好を熱心に主張していました。ド・ジャンは1963年にモスクワ大使を務めました。ソ連の秘密警察は「スワロー」と呼ばれるシステムを使用していました。これらの女性は、ソ連に駐在する西側の外交官や工作員を、スパイ活動で長く実績のある方法で誘惑する任務を負っていました。すなわち、標的を誘惑し、その後、想定外の配偶者が現れ、無防備な標的が従わない場合はスキャンダルを起こすと脅迫するのです。アラン・ペイレフィット(C’était de Gaulle、p. 690)は慎重な情報を提供しています。1964年1月14日、ド・ゴールは彼に打ち明けました:「またしても悲惨な話だ。可哀想なド・ジャン(ペイレフィットは『X…』と書いています)は自分で罠にはまった。ソ連は彼を女性の手に委ねた。もう少しで、我々の電報の収集がクレムリンに渡るところだった」。ド・ゴールの補佐官の一人、ペイレフィットが報告した言葉によると、パリに呼び戻されたド・ジャンは弁明のために面会を求めましたが、「しかし、将軍は彼をわずか数秒だけ受け入れただけでした。『さあ、ド・ジャン、女性が好きなのですね?』そして、握手もせずに彼を追い返しました」。

ド・ゴール大統領とアメリカ合衆国

ド・ゴールとアメリカ合衆国との関係は、間違いなく最も複雑なものでした。深刻な緊張があったにもかかわらず、ド・ゴールはベルリン封鎖やキューバ危機などの真の危機の際には常にアメリカを支持しました。一方、アメリカが緊張を高めた場合、ド・ゴールは公に距離を置きました。特に、1966年9月1日のプノンペンでの演説で、ベトナムにおけるアメリカの態度を激しく非難しました。これはフランスがよく知る作戦地域でした。

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逆に、彼の私的な通信もアメリカだけでなくイギリスによっても監視されており、自宅でも監視されていたのです!言うまでもなく、将軍はこれを非常に気に入らなかったでしょう!

核兵器とフランス・アメリカの反対

核兵器の戦略的重要性を確信していたド・ゴールは、サハラやフランス領ポリネシアで核実験を続けました。これは野党(ミッテラン)から「小さな爆弾に過ぎない」と批判されました。ド・ゴールは反論しました:「10年後には、8000万人のロシア人を殺すのに十分な核兵器を持つでしょう。では、8000万人のフランス人を殺すのに十分な兵器を持っている人々が、8000万人のロシア人を殺すのに十分な兵器を持っている人々を攻撃したいと思うでしょうか?仮に8億人のフランス人がいたとしても。」

アメリカのこのプログラムに対する態度は曖昧でした。ケネディはイギリス(ナッソー協定)と同様に、ド・ゴールにポラリスミサイルを提供することを提案しました。しかし、ド・ゴールは拒否し、フランスが自国の軍隊を建設したいと主張しました。核問題は1960年代を通じて仏米関係を悪化させました。初めて明確に「ド・ゴール主義」のアメリカ大統領となったのはリチャード・ニクソンでした。ニクソンはまずアメリカの核兵器に関する制限法を回避し、その後公式に仏米間の核協力の道を開きました。その時には、フランスのプログラムはほぼ完成し、その核兵器は非常に効果的でした。

アメリカとイギリスに対するフランスの反対とNATOからの離脱

歴史家のオリヴィエ・ポティエの説明によると、NATOは統合体制を採用しており、各国の部隊はアメリカの指揮下に置かれていた。その結果、フランス軍の大部分が外国の指揮下に直接置かれることになった。これに対し、ド・ゴールは「連合参謀部」または「三国指導部」の形成を支持し、同盟の主要メンバーであるフランス、イギリス、アメリカが協力して同盟の戦略方針を決定することを提案した。彼は1958年9月12日付の覚書で、この方向でNATOを改革するよう提案したが、アメリカとイギリスから一致して拒否された。この英米の拒否は、ド・ゴールにとってアメリカの防衛政策の覇権的性格を確認するものとなった。

地中海(1959年)で始まり、その後大西洋と英仏海峡でもフランス艦隊をNATOの指揮下から撤退させた後、ド・ゴールは1966年3月7日、アメリカ大統領リンドン・ジョンソン宛てに手紙を送り、フランスがNATOの統合指揮から撤退することを通知した。「フランスは、同盟軍の常駐とその領空の慣習的使用によって現在脅かされている領土の完全な主権を回復し、統合指揮への参加を停止し、NATOに軍隊を提供しなくなることを意図している」と。ド・ゴールのフランスは、アメリカ指揮下の統合軍事組織から離脱したが、大西洋同盟のパートナーとしての地位は維持した。ド・ゴールがペイレフィットに語ったように、アメリカ軍はフランスの基地から撤退し、NATO本部はベルサイユ近郊のロケンクールからベルギーに移転した。

ドルの金への換金

ドルの覇権が国際通貨制度と世界経済全体に与える危険性を認識し、「アメリカ人を借金に追い込み、無償で外国に借金させることになる。彼らは借金を返す際に、自分たちだけが発行できるドルで支払う」と信じていたド・ゴールは、金本位制への復帰を支持していた。

経済学者ジャック・リュフの助言を受け、宇宙開発競争やベトナム戦争がアメリカの国際収支を不安定にしていると考えたド・ゴールは、フランスが保有するドルの大部分を金に交換するようアメリカに要求しました。この操作は合法であり、ドルは当時公式に1オンスあたり35ドルの金に相当すると定義されていました。国際規制により、アメリカはこれに従わざるを得ず、ド・ゴールはフランス海軍に指示してフランス銀行のニューヨーク連邦準備銀行に預けられた金の預金を本国に返還させました。1971年、アメリカは金本位制を廃止し、ドルを「変動相場制」に移行させました。1973年と1979年のオイルショックを経て、金価格は急騰しました。ジャック・リュフの助言は、長期的には確かに賢明でした。

1968年の政治危機

1958年の財政改革に加え、フランスは「栄光の30年」と第四共和政下で始まった成長を享受しました。経済構造は近代化され、生活水準は向上しました。しかし、成長の恩恵は万人に等しく及ばず、社会的停滞に対する失望が広がりました。

支持者によれば、ド・ゴールは予測も理解もできなかった危機に完全に驚かされました。学生の要求や彼らが明らかにした「文明の危機」に無関心で、最善の場合は試験を受けたくない若者たちによる大きな騒動と見なし、最悪の場合は国家権威に対する挑戦と考え、直ちにこれを止めなければならないと考えました。

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ド・ゴールのユーモアのセンス
この厳格な外見の裏には、控えめだが確かなユーモアのセンスが隠されていた。
そのユーモアのエピソードの一つは、1967年、アンドレ・マルロー文化相が主催したエリゼ宮での芸術文学の夕食会にさかのぼる。
その夜のゲストの中には、フランス映画のアイコンであるブリジット・バルドーがいた。彼女は大胆なハンガリー騎兵の軍服をまとい、目を引く登場を果たした。
ド・ゴールは無表情でその様子を見つめ、マルローにそっと寄り添い、囁いた。
「素敵だ! 兵士がいる!」
短く、皮肉で、そして完璧に優雅な返答。まさにド・ゴールらしいものだった。
一言でユーモア、機知、そして自己嘲笑を組み合わせつつ、彼を特徴づけた威厳ある距離感を保っていた。

1968年5月10日から11日のバリケードの夜を経て、懐疑的なド・ゴールは、イランとアフガニスタンから帰国したばかりの首相ジョルジュ・ポンピドゥーに、新たな緩和政策を追求させた。辞任をほのめかしたポンピドゥーは、衝突を避け、運動がやがて力尽きると考えるようになった。

5月14日から18日まで、ド・ゴールはルーマニアを訪問していた。18日の夜、ルーマニアから早期に帰国した彼は、最も忠実な支持者さえも失望させた。彼は普段の機敏さと迅速な反応を欠き、ポンピドゥーの慎重さと自分が説く堅固さの間で揺れ動いているように見えた。

ストライキは続いた。27日には、シャルレティ・スタジアムでのデモが暫定政府の構想を提起した。その同じ日、フランソワ・ミッテランはこの解決策を支持し、共和国大統領選挙への立候補を宣言した。政治危機は頂点に達した。

5月29日、大統領の突然で説明のつかない失踪が起こった。彼は妻とともにヘリコプターで未知の目的地へと去った。この出来事は驚きをもたらし、様々な憶測を呼んだ。彼はドイツのバーデン・バーデンへ行き、フランス軍ドイツ駐留軍の責任者であるマッス将軍に会った。翌日のパリへの帰還後、彼はラジオ演説で堅固な調子で演説し、国民議会の解散を宣言した。その後、シャンゼリゼ通りでガウリストによる大規模なデモが行われた。

ド・ゴールは1968年5月30日、ラジオ演説でこれを宣言した。これは6月18日の呼びかけや、1960年のアルジェのバリケード事件時の介入と同様であった。文は短く、ほぼ各文が決定事項を告げていた。演説の終わりでは、先の声明(引用せず)で「追放された政治家たちの野心と憎しみ」に言及し、彼らが「使い捨てにされた後は、自分の重さ以上の重みは持たない」と断言した。しかし、将軍は1965年の大統領選2回戦でミッテランが得た44.5%の票や、1967年の総選挙で過半数を得た事実を見逃していた。

ゴール派の総選挙勝利は、規模は大きかったものの、政府の活性化には十分ではなかった。より右寄りになった国民議会は、ド・ゴール将軍が望んだ改革(参加制度、地域分権、大学改革など)に対しては慎重な姿勢を示した。危機の真の勝者であるポンピドーの排除は理解されず、彼は今や潜在的な後継者として浮上していた。ド・ゴールはもはや代えがたい存在ではなくなっていた。

1969年の国民投票と辞任

国民投票は最終的に1969年4月27日に実施され、地域分権と参議院改革を主な内容とした。地域への権限移譲、地域評議会への職業団体・労働組合代表の参加、そして野党(特に直接標的にされた参議院議長ガストン・モンヴェルヌール)から強く批判された参議院と経済社会評議会の統合が盛り込まれた。ド・ゴールは「反対」が勝れば辞任すると宣言した。

4月27日、わずか数日前まで「賛成」が優勢と予想されていたにもかかわらず、「反対」が52.41%の票を獲得した。4月28日午前0時過ぎ、コロンベ・レ・ドゥー・エグリーズから簡潔な声明が発表された。「私は共和国大統領を辞任する。この決定は本日正午に効力を生じる」。憲法に基づき、参議院議長で中道派のアラン・ポエール(モンヴェルヌールの後任)が暫定大統領に就任した。

シャルル・ド・ゴールはなぜ頻繁に意見が対立し、多くの反対者を持っていたのか?

子供の頃、ド・ゴールは卓越した知性と、自らの意思で決断する能力を示した。その家庭では、道徳と誠実さは決して疑われることのないものだった。また、服従よりも反抗を重んじる軍人の家系に育ったにもかかわらず、彼は一生を通じて批判的で建設的な思考を持ち続け、卓越性とフランスへの献身を追求した。

その後、非常に若い頃に、ペタンや第一次世界大戦の将軍など著名な人物と出会い、交流する機会を得た。これにより、彼らから学ぶことができたが、同時に彼らの限界や過ちも見ることができた。その結果、自分の選択や判断力が師たちのものよりも優れていることを理解した。

戦間期の混乱期、特に第二次世界大戦の初期には、国際的な舞台に立たされ、イギリスやアメリカなどの陰謀や卑劣な策略に巻き込まれた。海外ではほとんど知られておらず、無名に近い存在だったが、彼はこれらの策略を打破し、最終的にフランスの唯一の代表者として認められるに至った。

政治家として、彼は国際政治の主要な指導者となり、フランス—and the world—の未来に向けたビジョンに基づいた決定を下した。そのビジョンは今なお人々の心に影響を与え、現代のグローバルな組織の現実を形作っている。

結局、あらゆる反対や意見の相違を引き起こしたにもかかわらず、シャルル・ド・ゴールはパリやフランスにおいて、その遺産が国の歴史に深く織り込まれた中心的な人物として君臨しています。シャルル・ド・ゴール広場をはじめ、凱旋門に至るまで、彼の名は至る所にあります。彼の生涯は、単なるフランス史の一章ではなく、困難な時期でさえもフランスへの信念を貫いた、抵抗、指導力、そして不屈の精神の物語なのです。

シャルル・ド・ゴールの死と葬儀

1970年11月9日、いつものように、ド・ゴール将軍は自宅ラ・ボワセリー(コロンベイ=レ=ドゥー=エグリーズのド・ゴール将軍の私邸、パリとストラスブールの中間に位置するオート=マルヌ県)の図書室でソリテールを始めました。彼は腰痛を訴えた後、午後7時2分に腹部大動脈瘤破裂により倒れ、医師のラシェニー博士が到着する前に約20分後に亡くなりました。

ド・ゴールの死の知らせは世界中に瞬く間に広まりました。これは、フランスの歴史、そしてヨーロッパや世界の歴史において彼が果たした役割を振り返る機会となりました。

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シャルル・ド・ゴール将軍の国葬は、1970年11月12日にコロンベ・レ・ドゥー・エグリーズで執り行われ、5万人の参列者とフランス軍の代表団が出席しました。これは将軍の遺言で認められた唯一の公式参加でした。パリでは、多くの外国の元首がノートルダム大聖堂で彼の追悼に参加し、7万人の人々が大聖堂前の広場から式典を観覧しました。3億人のテレビ視聴者が世界中のテレビ放送で式典を視聴しました。

「私はコロンベ・レ・ドゥー・エグリーズで葬儀を行うことを望む。もし他の場所で亡くなった場合、私の遺体は公式の儀式なしで故郷に運ばれなければならない。

私の墓は、娘のアンがすでに眠る場所であり、いずれ妻も眠る場所となる。墓碑銘はシャルル・ド・ゴール(1890-…)とだけ。それ以上のものは何も…。教会でも他の場所でも演説は行わない。議会での弔辞もない。式典中に席を確保するのは、私の家族、解放勲章の同志、コロンベ市議会のメンバーだけである…。私はあらかじめ、フランスのものでも外国のものでも、いかなる栄典、昇進、称号、表彰、勲章を受けることを拒否することを宣言する。もしそのような栄誉が私に授与されるようなことがあれば、それは私の遺言に反することとなる。」

— シャルル・ド・ゴールの遺言、1952年1月16日

シャルル・ド・ゴール記念館は、1980年からコロンベ・レ・ドゥー・エグリーズに開館しており、一年を通して訪問できます。開館時間はこちら

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